この仕事に携わっていると色々な人に出会いますが、古手紙とか古文書類の収集家が意外と多いのに驚かされます。
愛好家の言によれば、その人のなまの言葉が手紙の内容で伝わってきて面白いし、世相も想像できる、と言われました。
30年ほど前、国木田独歩の恋文を知り合いの方から見せていただいたことがありますが、これじゃあ女もまいるだろうなあ、と思うような名文でした。
今回紹介する手紙は幕末の儒学者、大橋訥庵の武笠清右衛門宛ての手紙です。
儒教という教えは何か、と問われ、専門家以外答えられる日本人は現代では少ないのではないかと思いますし、思想なのか宗教なのかもわかりません。
しかし江戸時代儒者という職業の人たちが全国に一冊の本になる位いました。
この巻物の主人公、大橋訥庵は人物としてあまり評価されておりませんが、当時、嘉永から文久年間、尊王攘夷の思想家として非常に人気の人であったようです。
しかし今でいう過激派的思想家で,老中暗殺など企て、結局それがもとで47歳という若さで病死という事で終わっています。毒殺説が有力です。
あて先の武笠清右衛門ですが、武蔵国(現在の埼玉浦和)の豪農で名主のようです。
大橋訥庵は江戸の豪商佐野屋の養子となり、義弟菊池教中(澹如)を誘って、その莫大な財を基に尊王運動に投じ、全国にその名を広めた、とありますから、武笠家も相当な財のある名家ですから、何か通ずるところがあるような気がします。
武笠家は何と出雲族の家系で、はるか古代の時代まで、という話になりますと私たちの立ち入れるところではありません。
朱子学者の言葉は「であらねばならぬ であるべきである」と誠に言葉が鋭角にとがっています。
ひょっとすると大橋訥庵の講義もこうであたのかしら、と想像してしまいます。
ただ他の儒教国と違って日本が救われたのは素人考えながら、これに異を唱える陽明学が幕末にわかに輩出し、時代を切り開きます。
一例をあげますと 中江藤樹 二宮尊徳 吉田松陰 西郷隆盛 大塩平八郎 山田方谷 など近代日本に貢献した人たちですが、これら陽明学者は今でも資料的価値は高く評価されています。
余談ながら今収集家が一番欲しがる人たちの筆頭は洋学者の手紙です。
杉田玄白 緒方洪庵 福沢諭吉 大村益次郎 橋本佐内など垂涎の的です。又開明派 徳川慶喜 島津斉彬 横井小楠 坂本龍馬など人気は衰えません。
一方儒学者は30年前から右肩下がりが止まりません。
別な見方をすれば儒教を勉強したにしては、日本人は落第生と言われても仕方ないですが、本質的には民族的に洋学的な性格のような気がいたします。
これはあくまでもこのような仕事に携わっている者としての一方的な見方です。
この巻物には大橋順蔵(訥庵の通称)の5通の手紙を綴られています。
いずれも長文で、ためらいなく書かれています。学者と論者である大橋訥庵の気質を感じ取ることが出来ます。
日付は2月から12月までとなっており、1年間の文通であることが推測できます。
3通目9月の手紙には「…去月二十五日夜誠に稀なる大風雨津浪・・・江戸近辺破損不少拙宅も塾と物置越吹倒し住居向も家根・・・破壊…」と書かれています。
調べてみますと、安政3年旧暦8月25日に、「安政の台風」と後世に伝わる江戸とその周辺に 激甚災害をもたらした台風が発生した記録があります。
つまりこれは安政3年に書かれた手紙で有ることが判りました。
ほかには「堀田侯上洛云々」、「水戸老公に砲術問答云々」、「西洋学 昌平坂之儒者達云々」、「西洋諸国と交易云々」、「下田奉行亜米利加と応対云々」などなど書かれていますが、全部読めませんので、解読にぜひ研究者の方々のご協力をお願いします。