前回のブログの予告通り、先日現在東京国立近代美術館で開催されている「生誕150年 横山大観展」に行ってきました。
横山大観は画家として開花し、活躍した期間がとても長いので様々な年代の作品を多く楽しむことができます。
今回私が楽しみにしていたのは、目玉ともいえる生々流転や画家人生の中でも数多く描かれた富士の絵の数々でしたが、それだけではなく紅葉や夜桜などの屏風絵もそれはそれは美しく色鮮やかで、目にいい栄養をいただけました。
彼の絵の多くが前回訪れたあの家のあの部屋で、あの筆で、あの硯で、あの墨で描かれていたのかと思うと、横山大観がその絵を描いている様子が目の前にありありと浮かぶようです。
今回展示されていた彗星というハレー彗星が地球に接近した時の水墨画を見ていたら前回ハレー彗星が接近した時のことを思い出しました。
まだ小学生だった私を母がなるべく水平線に近いところが見える山の切れ目に連れて行ってくれたのですが、街の明かりが明るいし全然何も見えなかったという思い出です。以来、ハレー彗星をもう一度自分の目で見るのは私の大きな夢の一つでもあります。横山大観と私は作品をもって時空を超えてリンクしたのです。
数ある作品の説明の中の一つに「この作品は横山大観が朱舜水の貴重な墨を用いて描かれています」とあり、その墨そのものを見て知っていることに少し優越感もあります。
横山大観は宮家から依頼された富士の絵を描くときにこの墨を用いることを決めたそうです。
茨城県(水戸藩)出身の横山大観が水戸様から頂いた、水戸藩に水戸学をもたらした重要人物である朱舜水の墨と、その水戸学の思想が幕末に尊王攘夷へと昇華していき、明治維新をもたらしたこと、宮家、日本にとっての象徴的存在でもある富士山と、様々な事柄が横山大観の手のひらで転がされているようにも見えます。(もちろん横山大観はそんなことは考えていなかったでしょうが)
そして生々流転。ただただ静かな絵です。全長約40mの中に一粒の雨が大きな河となり海にそそがれ天に昇り雲になるという、水の一生に人生を重ねた作品です。
横山大観がこの作品を描いたのは55歳という、まだまだ画家としては中間地点のころでした。
墨だけで描かれているとは到底思えない雨や河や海、雲のみずみずしさ、ところどころ描かれる人々の暮らし、緑豊かな山々。
脂の乗り始めた画家の人生観だけでなく持てる技量のすべてが作品の中に納まっています。
以前呉昌碩展を見に行った時にも感じたのですが、芸術家として長く活躍している作家はその時代時代での作風を堪能できる楽しみもあり、作家の人となりそのものが常に人々に愛されているような気がします。
横山大観展を見ると人間としての横山大観がいかに大衆に愛されているのかがよくわかりました。
(夏樹美術スタッフ H)