乃木希典大将ご家族書簡巻物

近代日本戦史に欠くことのできない人物として乃木希典大将とその家族の珍しい手紙をご紹介いたします。

乃木大将書簡2通 同母堂1通 同夫人1通 長男勝典1通 次男保典1通 とあり、内容はどこの家庭にもある誠にほのぼのとした内容であります。
この巻物は乃木希典の弟、正誼の子、玉木正之が大正8年陸軍歩兵中佐の時、袴信一郎という人に贈呈するとあります。
袴信一郎という人は富山県史によると、水産業関係の人らしくのちに日魯漁業会社取締役になった人物かと思われます。
箱書きがありまして、2・26事件の時の首相、岡田啓介海軍大将が、乃木大将並一族親翰 と揮毫しております。

母堂のあて先はお登代とありますから、玉木正之の母、玉木豊子のような気がいたします。
玉木豊子は吉田松陰の姪に当たります。

乃木静子からの手紙も姉、柴手テイの娘あてと思われます。

二人の息子、勝典・保典両軍人の写真がありますが、何という好青年か、とほれぼれするほどの容姿であります。
二人は独身のまま戦死しておりますので、乃木希典の直系は絶えたことになります。

乃木希典の詩の中でも絶唱とされる漢詩があります。

山川草木轉荒涼   山川草木 転(うたた)荒涼
十里風腥新戦場   十里風腥(なまぐさ)し 新戦場
征馬不前人不語   征馬前(すす)まず 人語らず
金州城外立斜陽   金州城外 斜陽に立つ

この詩は長男勝典少尉が戦死した旅順の北方、金州城南山の激戦地を視察した時の詩とされています。
この詩はその後昭和の終戦まで日本の書家によって伝え続けられました。
余談ですが昭和天皇がまだ親王の時、乃木希典は学習院長をしておりました。
昭和天皇は終生、乃木希典大将閣下を尊敬されていたと云われています。

また、乃木伯爵は日露戦争の前に台湾総督として官吏の綱紀粛正に努めことも高く評価されています。
(夏樹美術スタッフ N)