文京区立森鴎外記念館

昨日森鴎外の居住地跡でもある「文京区立森鴎外記念館」へ足を運びました。
買取り等で夏樹美術までの道行き上通ることの多い文京区の本郷周辺ですが、以前より通るたびにカーナビにちらっと覗くこの場所が気になっており、ようやく暇を見つけて訪れることができました。

森鴎外は以前夏樹通信に登場した夏目漱石と同時代の偉大なる文豪であり、まさに今回私は文人交差点に足を踏み入れたのでした。

森鴎外記念館は明治25年に夏目漱石居住地であった通称「猫の家」から移り住み、その後森鴎外が大正11年に没するまでの間約30年間住み続けた「観潮楼」の跡地に建てられたものです。
今でも出入り口の敷石や中庭の大いちょう、その根元に置かれた大石などは森鴎外が住まっていたころからそのままになっており、当時をしのぶことができます。

藪下通側の出入り口にはめ込まれた「観潮楼址」の文字は歌人佐佐木信綱によるもので、庭園通路にはめ込まれた詩碑「沙羅の木」は永井荷風が書いたものであったり、庭園に置かれた通称「三人冗語の石」と呼ばれる大石は雑誌「めさまし草」で文芸批評を行った森鴎外、幸田露伴、齋藤緑雨の三人並びその前で写真を撮っていたりと、森鴎外という文人が今だけでなく当時もいかに偉大で多くの著名人に慕われていたのかがよくわかります。

また、今回の特別展示となる「鴎外と旅する日本」では公務で日本中を旅する森鴎外が公務の合間に文豪としての目で各地を見て回り、それがのちに「高瀬舟」や「安部一族」の舞台となってゆくという森鴎外の作品の背景がわかるようになっています。
さらに子供たちあてに頻繁に送った手紙も展示されており、彼がとても子煩悩な一人の父親であることがうかがえ、文豪から切り離された一人の人間としての森鴎外がしのばれます。

東京大学医学部卒業、陸軍軍医総監、小説、戯曲、詩歌の創作、翻訳家、評論家など、才能があふれるがゆえに期待され、成果を求められることが多い生活の中で森鴎外が本当にほしいもの、やりたいことを選び取って突き進むことができなかったことで悩み苦しみ、そしてそれは彼の世界観として小説の中にちりばめられていることを知り、多くの成功を収めているような人でも多くの苦しみがあり、その人間臭さが今も人々をひきつけてやまない理由なのかもしれないと思いました。

私は子供のころに横浜市に住んでおりました。
森鴎外といえば舞姫くらいしか思いつかない時分に実は小学校で散々歌ってきた「横浜開港の歌」(横浜市の公立の学校などでは卒入式や開港記念日など事あるごとに開港の歌を歌うので、横浜市民にとっては思い入れがある歌です)が森鴎外作詞であることを知って、自分の身近に偉大な文豪がいて非常に驚いた思い出があります。

森鴎外記念館を出て本郷通りを目指して歩いていきますと、何となくだんだん見覚えのある道になっていき、根津神社の前に行き当たりました。
なるほど、夏目漱石の居住地であった西片町の家と観潮楼の間の辺りに根津神社はあって、二人の文豪が散歩がてら道端でばったりなんてこともあったのかもしれないと妄想も膨らみます。

そこから本郷通りに出て東京大学農学部前を通ったので、ついでに以前東京大学農学部教授であり忠犬ハチ公の飼い主でも知られる上野英三郎博士の銅像を見た時に守衛さんがくださった上野博士とハチ公のシールが以前はバレンタインデーバージョンであったものが今回はこどもの日バージョンに代わっていたのでまたまたいただいてきました。

夏樹美術よりぐるっと回って数時間の範囲に、誰でも知っている偉人がかつてもそして今も息づいている文京・千代田区。
今後もこの場を通じて皆様にご紹介できればと思います。

(夏樹美術スタッフ H)