須恵器有蓋四耳壺(薬壺)

東京都と神奈川県との境を流れる多摩川の流域には、古代から多くの人々が住みつき、縄文時代からの遺跡が数多く点在する。
四世紀になると古墳が造られ始め、この地域では五世紀から七世紀にかけて造られた飛田給、下石原、布田、国領、白山などの古墳群が知られている。
現在では遺跡のほとんどが地上部分は削りとられ、一目で古墳とわかるものは残っていない。
しかしそれら多摩川流域の遺跡から発掘され出土した幾つかの壺が大変注目されている。
多摩川の中流、小田急線とJR南武線の交差する登戸付近で発見された重文の山菜の壺。
下流域の川崎市幸区の白山古墳にて発見された国宝の秋草文壺。
多摩川上流域の昭島市にて発見された須恵器獣足壺などである。
いずれも国の文化財として大変貴重なものであり、それらはこの地域に古くから有力な豪族達が住みついていた証しでもある。

今回のこの壺は、このような地域の中間に位置するJR南武線武蔵溝の口駅近郊の、川崎市高津区下作延555番地にて、昭和17年に宅地造成中に偶然発見されたものである。

神奈川県史によれば、出土地は丘上の少し盛り上がったように見える所で、壺の中には灰と火葬骨が納められていたという。
須恵器としては他に類例のない形状で、肩の張りも鋭く、耳は角が鋭く仕上げられており、全体がシャープな造形である。何か特別に製作されたもののように思うが、それが骨蔵器として造られたものか、なにかの転用かは明らかではない。
四つある耳には穴が開いており、この穴に紐を通して蓋を固定したものと思われるが、もしそうであれば、蓋についている宝珠型の摘みもただ単に蓋を摘む目的だけではなく、そこに紐を巻きつけて固定するという利用も有ったのではないか。あるいは発見地の付近には、久末という地名もあり、須恵器と何らかの関係がある地名ではないのかなど、被葬者への想いと共に興味は尽きない。

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(夏樹美術スタッフ N)